2012年5月7日月曜日

アキ・カウリスマキ監督『街のあかり』(2007)



『街のあかり』の主人公(=ヒーロー)コイスティネンは、皮肉なことにこの映画の中で最も不幸な人物、「負け犬」だ。いわば、彼はこの映画の犠牲者である。

彼は劇中、たった一度しか笑顔を見せない。他人の罪を被って服役している時、他の囚人たちと煙草を吸って談笑している、その一回のみである。もしかしたら、この時が彼にとっては最も充実した時間だったのかもしれないが、それはわからない。コイスティネンにとって絶対的な他者たる登場人物たちや、徹底して「他者の目」としてあるカメラは、終始無表情で感情の起伏に欠くコイスティネンの内面には決して立ち入らないからだ。皆が皆、コイスティネンにとって他者である。街のあかりも、コイスティネンとは無関係に煌々と灯っている。



彼は孤独である。煙草も、酒も、音楽も、企業するという夢も、そして彼に密かに思いを寄せるアイラすらも、彼の孤独を打ち破るほどの力を持ち合わせていなかった。反復されることにでより強固なものとなってゆくコイスティネンの孤独と、硬化してゆく感情。それをついに揺さぶったのは、悲劇的に圧倒的な絶望と暴力だった。映画の最終部、絶望と暴力に打ちのめされ、地の底の底へと追いやられたコイスティネンがそこで口にするのは、ネガティヴだが微かに希望の陽が差し込む科白である。

「ここじゃまだ死ねない」

そこにおいて、彼は初めてアイラの手をしっかりと握るのだ。しかし、ここまでコイスティネンを追いやらねば希望というものが見いだせない、カウリスマキのニヒリズムに私は少し怖くなってしまう。この世はそれほどまでに愛なき世界だろうか?


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